ひと・宇宙・波動 5

 敵を知り、おのれを知れば百戦危うからず、とは言うものの、敵を知ることは客観的な情報を収集することなので、さほどむずかしくはないにしても、おのれを知ることは遥かにむずかしい。たいていは自分を過信したり、不安にかられたりして、得られるはずのものを得られなかったり、せっかく持っていたものを失ったりする。

 

 冷静な自己判断は、自分自身ではむずかしい。そこで信頼のおける誰かに相談する、ということもよくあるが、問題が重大であればあるほど、相談された者も責任を負うのは避けたくなるから、なかなか深い相談というのはやりにくい。

 

 ただ世の中がリズムによって成り立っている、というのは確かであるから、そのリズムをつかむ方法、あるいは自分にはどちらが向いているかを自分自身で判断する方法はある。それが精神の集中であったり鍛錬であったりするが、それを外注してしまおうとすると、それが占いという手段になったりする。

 

 占いはすべて迷信であるから信じるべきではない、という立場もあるが、陰陽五行にせよ、タロット・カードにせよ、そこには確率論的な世界、ビッグ・データから割り出された世界がある。これまでの歴史において、あまりにも多くの人生があり、あまりにも多くの結果のわかった原因がある。そのビッグ・データから割り出された指摘は、ある種の蓋然性で自分を識別するための指標になる。

 

 他人の指示には従いたくない、というのは、自立した精神なら普通に思うところだが、敵を知るために情報収集が必要であるのと同様、自分を知るためにも情報の収集が必要である。自分という存在は他者との関係である、というのが20世紀以降の知恵であるが、それは同時に、自分もまた宇宙にあまねく存在する情報の一部である、ということでもある。

 

 過去のビッグ・データの解析から抽出することによって得られた自分についての指摘は、当たるも八卦、当たらぬも八卦の確率的な「賭け」である。そうであれば、必ず当たるわけでもない自分についての評価を何らかの参考にすることは、確率論的な意味しかないが、確率論的な意味はある。

 

 

ひと・宇宙・波動 4

 毎日の繰り返し、退屈な日常、というように見えるものによって人生はつくられている。もちろん、時には大事件と呼べるようなものも起こり、我々はそういうイベントの連なりを人生と呼んだりもするが、実際のところは、そうした大事件も日常の中に潜んでいた要素がある一定量を超えたために表面化したに過ぎない可能性がある。

 

 日々が充足していて、満ち足りていれば、いつまでもそうした日々が続けば良いと自分は願うかも知れないが、自分というのは、ありとあらゆるものとの関係性のことであった、と思い返してみれば、自分だけの充足や満足でものごとは十分ではなく、むしろ自分よりも他者がどうなのかの方が重要である、というのが、長いスパンでは正しい見方であろう。

 

 日々、私は満たされているか、ではなく、日々、あの人は満たされているであろうか、というより大きな世界への関心、積極的な行動が、結局は大きな弧を描いて自分自身に戻って来る、そういうようにこの波動からなる世界はできているだろう。

 

 私のために、誰かが苦しむという現実があるならば、それを自分が認知しているかどうかに関わらず、いつかは自分に反応として還ってくる。それが関係性からなる世界である。因果応報というのが古来の知恵であり、原因があるから結果が生まれる。他者を優先する生活の中にこそ、自分の安心が生まれる。自分が少しでも多くの利得を得ようとすれば、失う不安が募り、いつかは本当に何かを失ってしまう。

 

 ひとにはできることとできないことがある。理想主義に燃えてできないことをやろうとするのも思慮の足りない行為であり、現実主義が度を超えて十分できることなのにやろうともしないのも、しくじった生き方ということになろう。できるかできないか、の理性的な判断が行動の前に必要であろう。

 

 調子に乗り過ぎました、という言い訳が、この世界には蔓延している。どこまで調子に乗っても良いか、ということを入念に予測し、予知することがその人の人生を決定すると言っても良いだろう。

ひと・宇宙・波動 3

 ひとはどのように自分を認識できるのか。20世紀の西洋哲学を席捲したとも言える現象学的な見方をすれば、ひともものも関係の中ではじめてその特質を示す。量子力学でも、ものは波動性を有しており、観察者との関係抜きにその存在を決定できないと述べる。哲学も物理学も20世紀のそれは、存在はそれ自体を語るべきものではなく、関係においてはじめて発現するもの、という見方を示している。

 

 自分はどんな関係の中で生きているのか。自分には親がおり、家族がおり、近所には隣人たちがおり、学校や職場に行けば上司な同僚などがいる。そういう複雑な人間関係を消化し、操作しながら生きるのが人生であるが、それらの様々な関係の中に自分という存在がある。自分は必ずしも一面的あるいは確定的なものではなく、他者との関係によって揺れ動き、変化をやめないものである。

 

 そういう自分のあり方を客観的に見る、というのは至難であって、容易なことではない。自分も変化し、他者も変化する中で、いろいろなイベントが生まれ、それが関係を大きく変えたりもする。そういう波浪に翻弄されるようなのが人生であるとしても、関係の総和としての自分というものは間違いなく存在する。

 

 ひとは誰でも幸せになろうとする。その幸せとは何であろうか。他者との関係の中に調和と安定があり、時間が快適に流れるとすればそれが幸せという状態であろう。しかし、幸せはいつも崩れる可能性を秘めており、つかんだ瞬間からそれを裏切る動機が生じたりもする。そういうドラマが人生であり、人生を変える瞬間に人は決断をする。

 

 決断には良いものと悪いものがある。悪い決断は、その場、その時には甘美で自分を満足させるが、それが過ぎ去れば、苦悩や悔恨に苛まれる。いつも良い決断、正しい決断をするために必要なものがあるとすれば、それは人生における知恵であろう。知恵とは、多くの先人たちが積み重ねて来た経験知の総和であると見ることができる。知恵を携えて生きることが幸せな人生を生きるための要諦であろう。

ひと・宇宙・波動 2

 人にも世界にも一定のリズムがあるが、それは根本的に世界が波動で成り立っているからだろう。粒子であれば、特定の位置に時間という要素を抜きにしていつまでもあり続ける、というイメージも成り立つが、原子よりも遥かに微細な領域では、存在は波動である、という前提でないと方程式自体が成立しない。

 

 波動は、周期性を持つからおのずと繰り返す性質を持つ。その繰り返し方がリズムであって、我々は決して静止している存在ではなく、一定のリズムをもって生きている存在であると言える。自分にもリズムがあり、他者にもリズムがあり、世界そのものにもリズムがあるので、それぞれの間には協和もあるし、不協和もある。

 

 全体的には協和があるから世界は平穏なのだが、その中に不協和をはらむからこそ、世界は突発的に変化したりもする。一定のリズムをきざむ時間帯とそれが破れる時間帯とがあり、それが破れる時は、風雲急を告げる、というようなことになる。

 

 協和は不協和を常にはらんでいるし、不協和と言ってもそれは協和をめざす運動であると見ることもできる。今がどんな時なのかを知ることが大きな歴史的事件を起こすにせよ、個人的な日常の決断をくだすにせよ、必要な知識であり、それを知るために多くの文明では「こよみ」が作られてきた。

 

 キリスト暦2024年にあたる今年は、「甲辰」と呼ばれる。わが国の古文書でもその年を表現するにはほぼこの干支が使われて来た。庶民一般には現在いかなる天皇が即位しているかは周知されにくく、南北朝のように事情が複雑になる場合もあったから、中国式の干支が便利であったためだろう。

 

 干支は60通りの組み合わせを10種の「干」と12種の「支」であらわしたものだ。10種と12種を覚えれば、60通りの組み合わせを表現できる数学的に便利なものだが、これで大きなリズムの中で、現在がいかなる「年」「月」「日」であるかが示される。

 

 暦のリズムをつかんでおいて、それに合わせて何かをはじめる、終える、ということは、自分を世界とつないでおくためにも有意義なことであると言える。

ひと・宇宙・波動 1

 波動は、3次元(あるいは量子レベルを見ればそれ以上)の空間に伝わるだけではなく、常に一方向に(過去から未来に)しか進まない時間軸でこれを観測することもできる。むしろ、波動は一地点で見れば何かの可能性が消長することを指すため、周期という時間要素が必ず含まれる。そこで、波動を理解するためには時間の要素が必須になる。

 

 陰陽の繰り返しが波動を構成するが、小さな陰陽の繰り返しが見られるとしても、それだけが波長ではなく、小さな上下動を繰り返しつつ、それが大きなトレンドを形成する、ということがある。小さな上下動は、一種のルーティンであって、そこに気を取られるよりは、大きなトレンドがどこにあるのか、を知ることが重要であろう。

 

 イスラエルハマスの武力衝突に関し、アメリカの大学では反イスラエルを主張する学生たちの政治運動が活発化している。イスラエルのガザ侵攻を「その部分だけ」とらえれば、それを日常生活を営んでいた多くの家族を犠牲にする極悪卑劣な行為であると見ることは間違ってはいない。しかし、昨年10月のハマスからの大規模攻撃を受けて、これをイスラエル建国時から続くいわゆるパレスチナ問題を大きく動かすためのレバレッジにしようとしているものと見れば、単にイスラエルの攻撃をやめさせるだけでは、問題が拡大再生産されるだけで、むしろ今後の潜在的な被害を大きくするもの、と見る視点も出て来る。

 

 小さな波と大きなトレンド、その両方を見ることで我々はより正確な予測をすることができる。過去の歴史を研究することは必要なことだが、単に年号を記憶するとか、事実関係を羅列することができたとしても、その歴史研究にはそれほどの意味はない。重要なのは、そこからトレンドを読み取って、そのトレンド上にある現在を正確に認識し、これからの予測の精度を高めることである。

 

 未来予測は決して当たらない。個人としての人間に自由が与えられており、社会が多くの個人の集合体である以上、予測できない個人の行動が社会に重大なインパクトを与え、その結果、社会は予測を遥かに逸脱して、これまでのトレンドとはまったく異なる別のトレンドが生み出される、ということが何度も起きるからだ。しかし、これもまた、さらに大きなトレンド上で起こったことであることがわかれば、予測は決して無駄でもないことになる。