ひと・宇宙・波動 4

 毎日の繰り返し、退屈な日常、というように見えるものによって人生はつくられている。もちろん、時には大事件と呼べるようなものも起こり、我々はそういうイベントの連なりを人生と呼んだりもするが、実際のところは、そうした大事件も日常の中に潜んでいた要素がある一定量を超えたために表面化したに過ぎない可能性がある。

 

 日々が充足していて、満ち足りていれば、いつまでもそうした日々が続けば良いと自分は願うかも知れないが、自分というのは、ありとあらゆるものとの関係性のことであった、と思い返してみれば、自分だけの充足や満足でものごとは十分ではなく、むしろ自分よりも他者がどうなのかの方が重要である、というのが、長いスパンでは正しい見方であろう。

 

 日々、私は満たされているか、ではなく、日々、あの人は満たされているであろうか、というより大きな世界への関心、積極的な行動が、結局は大きな弧を描いて自分自身に戻って来る、そういうようにこの波動からなる世界はできているだろう。

 

 私のために、誰かが苦しむという現実があるならば、それを自分が認知しているかどうかに関わらず、いつかは自分に反応として還ってくる。それが関係性からなる世界である。因果応報というのが古来の知恵であり、原因があるから結果が生まれる。他者を優先する生活の中にこそ、自分の安心が生まれる。自分が少しでも多くの利得を得ようとすれば、失う不安が募り、いつかは本当に何かを失ってしまう。

 

 ひとにはできることとできないことがある。理想主義に燃えてできないことをやろうとするのも思慮の足りない行為であり、現実主義が度を超えて十分できることなのにやろうともしないのも、しくじった生き方ということになろう。できるかできないか、の理性的な判断が行動の前に必要であろう。

 

 調子に乗り過ぎました、という言い訳が、この世界には蔓延している。どこまで調子に乗っても良いか、ということを入念に予測し、予知することがその人の人生を決定すると言っても良いだろう。